東鹿越から中斜里への石灰石輸送列車です。1997年3月に廃止されました。
根室本線の滝川-新得間を直通する貨物列車は既にありませんでしたが、滝川-富良野間のコンテナ貨物と東鹿越-釧路間の石灰石輸送が残っていました。
DD51が牽く短い編成のトキ25000です。⇒トキ25000石灰石積み
非電化ローカル線を中心にしたレイアウトです。名前と違って地を這うペースで工作しています。
東鹿越から中斜里への石灰石輸送列車です。1997年3月に廃止されました。
根室本線の滝川-新得間を直通する貨物列車は既にありませんでしたが、滝川-富良野間のコンテナ貨物と東鹿越-釧路間の石灰石輸送が残っていました。
DD51が牽く短い編成のトキ25000です。⇒トキ25000石灰石積み
上り下り共にスユニが機関車の次位に連結されていた様です。これは旅客車とスユニの運用が別々だった為でしょうか。
急行あがのです。
2024年に発売されたスユニ50 2014(品番5141)です。
以前からあるスユニ50(写真上)はボディーマイントカプラーなのに対して、品番5141は台車マウントカプラーなのが大きな違いです。床下機器が一箇所(2連の機器箱)追加されていました。
いつも通りばらして塗装します。
シートパーツはねずみ色1号に塗りました。
クリーム色よりも良くなりました。
床下もいつも通りです。
出来上がりました。
妻板の写真を撮ったら尾灯のレンズが見えない事に気付きました。
レンズ部品がずれていたので、直しておきました。
KATO旧型客車4両セット(茶)の最後の1両を整備しました。
スユニを除く3両のうち2両は青15号に塗り替えましたが、残りの1両はぶどう色2号のまま整備する事にします。但し、個体差かも知れませんが、窓枠の色つやがボディーとかなり違うのが気になります。
旧型客車増備もそろそろいいかな、という感じなので、この1両は最後かと思って思い切って窓枠を塗り直す事にしました。最初に縦枠を塗ります。
次に上下の横枠を塗ります。片側窓数枚分ですが、マスキングテープの間の隙間から窓数枚分だけ若干吹き込んでしまったので、先をヘラ状に削った爪楊枝にシンナーを付けて消しました。
いつもの手順で塗装します。
シートパーツ=青15号
屋根・ベンチレーター=マルチプライマー+つや消し黒+ごく薄い錆色+つや消しクリア
ボディー=薄め液でナンバー消し+インレタで改番(配置区は関スイのまま)+半光沢クリア
床下・台車=マルチプライマー+つや消し黒+錆色+つや消しクリア
トイレ窓は白ガラス部分を含めてつや消しクリアを吹いておきました。
今後の再生産の際には窓枠塗装(印刷)が改善されると良いと思います。
参考にさせていただいたHP・ブログ・書籍(敬称略):1980年4月国鉄の世界、鉄道ピクトリアルNo.718【特集】スハ43系(Ⅰ)、その他
ばら売りで購入したKATOの非冷房キハ58M車です。トミックスと併結しても全く違和感はありません。
列車種別表示幕を”急行”から白幕に交換しました。
交換にはライトユニットを外す必要がありましたが、破損する事なく無事外せました。
ジャンパー栓は付属していなかったので、残っていたコード無しジャンパー栓を付けてからクリーム色4号に塗ります。
603は山形所属車でしたが、新潟タイプの赤ホロ枠にしておきました。カプラーはTNカプラーと連結可能なのでそのままです。胴受けパーツは手持ちがあった筈ですが、取り付けが難しそうで、そもそも連結出来なくなる様なので付けていません。
床下機器は筆塗りでブラックアウトしておきました。
1980年代前半、磐越西線の旧型客車置き換え前には50系客車と旧型客車の併結運転がありました。
DD51が旧型客車2両編成を牽く会津若松発下り野沢行きです。野沢駅近くの福島県立西会津高校への通学の為の列車で喜多方-野沢間は休日運休でした。
客車2両編成になるのは喜多方-野沢間で、喜多方切り離しの客車は日中線の朝の運用を終えたDE10が牽引して会津若松に戻った様です。
野沢では新潟から来た上り郡山行きの50系客車4両編成の後尾にそのまま連結され、50系4両と旧型客車2両の6両編成を会津若松まで2台のDD51がプッシュプル運転していました。
蒸気機関車時代にはC57とC11の組み合わせだった様です。
参考にさせていただいたHP・ブログ・書籍(敬称略):クロとチビのブログ、スプーンの気まぐれ日記、Diesel Power☆ 内燃機関車の咆哮 ☆、風太郎のPな日々、やわやわとまれ♪の鉄道雑記帳(時刻表やら車両運用やら構内配線やら)、Wikiprdia、時刻表復刻版1982年11月号、その他
赤谷線の風景を再現しようと思って、久しぶりにネット上の素晴らしい記録の数々を拝見させていただきました。急行色と首都圏色の2両編成のディーゼルカーが、エンジン音とジョイント音を響かせながら通り過ぎてゆきます。
新発田と東赤谷の間を1日1往復していた貨物列車です。
東赤谷から鉄鉱石を積んでいたトキ25000です。
羽越線資料館に出ていた1968年(昭和43年)の数字を見ると東赤谷発貨物の主な到着駅は鉄鉱石が新潟港年間2万7千トン、浜川崎2万トン、焼島6千トン、酒田港5千トンですが、その他に足尾本山行き硫化鉱1千8百トンが目につきました。
朝の4両編成ディーゼルカーです。キハ55が1981年に新潟から撤退した後、2エンジン車はキハ58とキハ52が使われていました。新潟配置のキハ52×2両は赤谷線専用だったらしく、1984年3月末で赤谷線が廃止されると4月早々に岡山に転出しています(その後更に鹿児島に転属)。キハ35(500番台)が廃車または転出で新潟から姿を消したのは1985年でした。
キハ45は越後線電化直前の1984年4月にすべて新潟から転出しています。