2024年5月30日木曜日

1966年 木次線(Nゲージ)

 もう60年近く前の木次線です。ネット上で数々の貴重な記録を拝見する事が出来ます。


乗客の少ない木次-備後落合間では、C56がオハユニ1両と僅かな貨車を牽引する混合列車が走っていました。オハユニ61の座席定員は40名。当時からこの区間では利用客が少なかったのでしょう。

オハ61も連結されたこの編成だと定員は96+40=136名。101系・103系電車の先頭車1両と同じです(通勤型電車は立ち客も含めてなので単純に比較出来ませんが)。客車列車は1967年まで運行されました。

木次以北ではC11が活躍していました。貨車10両以上の貨物列車も見られましたが、1965年以降5年間で貨物取扱量は半減したそうで、1982年には貨物輸送は廃止されました。

C11とC56の重連もあった様です。

キハ07 0番台は1966年8月までに廃車されましたが、200番台は1970年3月まで活躍しました。(写真のキハ07 10は1963年に廃車になっていました...。)

キハ52は100番台が3両、1966年5月に木次に配置され、液体式変速機に交換されていたキハ07 200番台との連結運転も行われていました。(模型は0番台なので雰囲気だけです。)

キハ52のうち1両138は配備翌年の1967年、客車列車廃止の際に半室郵便荷物代用車の651に改造されました。

1966年の木次線には同年から急行に格上げされた列車が3往復走っていました。”ちどり”2往復と”いなば”1往復です。”ちどりは広島-米子間2往復(木次線内上りの米子行きは岩国始発)のうち1往復が夜行列車、”いなば”は広島ー鳥取間に1往復でした。この頃が木次線の全盛期だった様です。

木次線から蒸気機関車が引退したのは1974年です。同線の亀嵩駅を全国的に有名にした松本清張原作の”砂の器”が公開されたのも1974年でした。

参考にさせていただいたHP・ブログ・他:岡山模型店、記憶の中の鉄道、DRFC-OB デジタル青信号、木次線利活用推進協議会、わが国鉄時代2、中華特急のスローライフ、Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記、私の撮った鉄道写真、SL現役の頃・そしてその後、鉄道写真帳「蒸気の匂った時代」、Wikipedia、鉄道ピクトリアル、きはゆに資料室、ARC資料館、その他

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