小海線は東京から比較的近かったせいもあって、1950年代からの記録が比較的多く残されています。断片的ながら数回に亘って、少しずつ昔の風景を再現してみます。
1950年代、小海-小淵沢間は機関車牽引の客車列車が1日3往復のみで、それと別に貨物列車に客車を連結して客扱いを行っていたそうです。1959年の画像ではダブルルーフの三等表記のついた客車も活躍していました。
気動車はキハ04が小諸-小海間で使用されていましたが、1958~59年にキハ11に置き換えられ、1960年にはキハ52も投入されました。その後、小海ー小淵沢の急勾配に備えて2エンジン車と1エンジン車の組み合わせを基本に運行されていた様です。
快速八ヶ岳高原号です。新宿から小淵沢まで岡谷行きの霧ケ峰高原号と併結で運転され、小淵沢-野辺山間がC56牽引の3両編成でした。
1968年に格下げされたキハ26 303が1両だけ中込区に配置されていました。
キハ11とキハ52の中に1両だけ急行色が混じり、しかも半室は旧1等車という、なかなか魅力的な存在でしたが、1971年には松本に転属になりました。
高原野菜輸送列車はKATO製品の様に側扉を開けて積み荷が見えている姿が普通だった様です。その中にはツムだけでなく、ワムや家畜車が混じっているものもありました。
野辺山と信濃川上の間に臨時積み込み場が設けられ、前後にバック運転のC56が連結された貨物列車がそこで積み込みを終えた後に小淵沢に向けて出発。後補機は野辺山で切り離されるという運用が記事に出ていましたが、単機、それもバック運転で走っている姿もあったりと、いろいろな運用があった様です。
1975年頃に小海線に乗った時の写真です。C56はとっくに引退した後です。もう1枚小海駅で撮ったキハ52の画像もあったのですが、どこかに行ってしまいました...。
参考にさせていただいた記事・HP(敬称略):鉄道ピクトリアル”貨物列車・その良き時代中川浩一”、思い出の車窓から、きはゆに資料室、その他
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