2025年10月19日日曜日

DF50 56(Nゲージ)四国形

 KATOのDF50四国形を整備しました。四国形はいろいろ特徴がある様ですが、前面が帯板で補強されている事位しか見た目の違いが分かりません。車番は特に決め手となる理由はありませんでしたが”56”にします。

説明書を見ながら、ホイッスル、信号炎管、ナンバー、手すりの順に取り付けました。

試運転します。するするではなく、唸りながら加速する感じの重厚な走りです。

先日整備したDF50 59と重連で試運転しました。59号機は紀勢本線で活躍した機関車ですが、その後、四国に渡ったそうです。別々に走らせると若干56の方が速い気がしますが、重連運転は特に問題ありません。

参考にさせていただいたHP・ブログ(敬称略):記憶のDF50、旅客機と国鉄車両画像のページ、Kano鉄道局、その他多数

2025年10月14日火曜日

給炭台(Nゲージ)その2 完成

 給炭台完成です。

当初、屋根は赤茶色に塗りましたが、水色の給水タンクに似合わないので一旦塗装を剥離して濃いグレーに塗り直しました。

石炭を載せます。透明なゴム系接着剤を塗って、モーリンの”Rストーン石炭”を盛ります。後からつや消しクリア塗料をスポイトで滴下し、石炭を追加しておきました。

土台には木工ボンドを塗って雑草を生やしておきます。

給水タンクの配管は元々テキトーに作ったので途中で切れていました。

それらしく地面に繋げておきましたが、意味不明?な作りです。

給水スポートは画像検索で見つけた南延岡機関区のものを参考に、かなり雑ですがそれらしくでっち上げておきます。

何とか出来上がってきました。

まずまず良い感じです。

でも給水スポートの位置がいまひとつです。給炭台の脇にないと作業性が相当悪そうです。


移設する事にしました。スペースがないので土台を切り出して反対側に接着し、場所を作りました。

給炭台側に移動します。土台の継ぎ目には雑草を生やしておきました。

なんとか完成です。なかなか楽しく工作する事が出来ました。

参考にさせていただいたHP・ブログ(敬称略):煙を求めて幾千里、レールカフェ アーカイブ、壁紙館、駅舎の灯、カルタゴ鉄道模型のページ、懐かしい駅の風景~線路配線図とともに、国鉄時代の車両と風景(70年代前半)、鉄道写真帳「蒸機の匂った時代」、DRFC-OB デジタル青信号、幌歌内の気まぐれブログ、#木造給炭台、G鉄グラフィティ、その他


2025年10月12日日曜日

給炭台(Nゲージ)その1

 前々から作ろうと思っていた給炭台を水タンクの隣に設置する事にしました。

まずは土台部分を手持ちのプラバン(たぶん1.5mm厚)から切り出します。

ボール紙でモックアップを作って寸法を決めます。

会津田島駅や会津川口駅の給炭台を参考に、随分昔に気まぐれで買ってあった1.2mm真鍮角棒をペンチで折り曲げてみましたが、ダメだこりゃ、という感じです。すぐに諦めました。

ちょっと太めですが、柱は1.5mm角のプラ棒で作る事にしました。

今回は慎重にボール紙で治具を作って組立てます。

四隅の柱は1本、真ん中の柱は上下に分けて作りました。

縦横比がプロトタイプと少し違う感じですが、柱も太目だしこんなもんでしょうか。

やや背が低い気がしたので、土台に2mm角棒を使った沓石を取り付けておきました。

バルサ板から燃えかす置き場の枠を作っておきました。

ついでに一部破損していた構内踏切を補修しておきます。

一通りのパーツが出来たので、塗装しました。

おそらく給炭台床板はコンクリートで出来ていたのだろうと思って、グレーに塗ってからマスキングします。

屋根は赤茶色に塗りました。それらしくなって来ました。


2025年10月9日木曜日

1979年 吉都線(Nゲージ)

 当時の吉都線には朝一番で貨物列車に客車を1両繋いだ混合列車が走っていました。1979年10月号の時刻表を見ると、小林発吉松行き上り681レがそれに当たる様です。ちなみに同時期の吉都線ではDF50とDE10の2種類のディーゼル機関車が併用されていました。

全線通しの客車列車が2往復ありました。上り都城発吉松行きが夕方と夜に1本ずつあり、翌朝、吉松発下り1番列車と2番列車として都城まで戻る運用でした。

ところで朝一の混合列車用客車1両はどうやって小林に回送されていたのでしょうか。朝の下り列車は2本共、小林駅での停車時間が1分しかないので切り離しの時間はなさそうです。他の貨物列車に連結されて吉松から小林まで回送されていたのかも知れません。

上記客車列車2往復半の他にディーゼルカーの普通列車が4往復ありました。

単行列車も走っていた様です。

急行えびのは3往復。そのうち2往復は熊本-宮崎間、1往復は博多-宮崎間の運転でした。2000年3月改正で廃止されています。


博多と宮崎の間を走る特急おおよどは1974年4月から1980年9月末まで1日1往復の運転でした。共通運用だった特急にちりんの電車化に伴って廃止されました。おおよどの名前の由来は鹿児島県を水源にして宮崎県の日向灘に流れる大淀川です。

参考にさせていただいたHP・ブログ(敬称略):汽車・電車1971~、DD51763の撮影日記 2、mr.slimのPHOTO BLOG、時の流れに郷愁紀行、昭和の記憶と復活蒸機、ヤスのひとりごと、愛称別トレインデータ館、波浪規定の部屋、その他

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「汽車・電車1971~HP」に、主宰のTADA様が2025年9月23日に逝去されたとの報が掲載されていたました。貴重な記録の数々の公開に心から感謝すると共に謹んでお悔やみ申し上げます。


2025年10月8日水曜日

DF50 59(Nゲージ)修理入場

 KATOのDF50が動かなくなりました。少し前から不調だったのですが、パワーパックのダイヤルを捻ってもいよいよ全く動かなくなりました。ごくたまにライトがちらつく気がしますが、パワーパックのパイロットランプが点滅するのでモーターがショートしている様です。

恐る恐るばらしてみました。何とか爪等を折らずに部品も紛失せずに分解出来ました。

モーターを交換する事にします。ネットでいろいろ調べてみるとGM-5電機用が適合する様です。

手前が古いモーター、奥が新しいモーターです。フライホイールも接触端子も同型です。

新しいモーターで台車までばらしてなんとか組み直しましたが、パワーパックのスイッチを入れてもあれあれ、不動のままです。後はコンデンサー位しか理由は考えられないので、半分やけくそでニッパーで切り取ったところ、なんとか走る様になりました。ところが走るのは走るんですが、全然スピードが出ません。


特に片方向はフルスロットルにしても、とても実用になる様な速度が出ません。車体を外してみるとモーターが手に持てない位に熱くなっていました。

電気的な知識もKATO製機関車の構造知識も乏しくて理由が分かりませんが、試しに古いモーターを使って組み立て直してみました。

すると何事もなかったかの様に好調に走る様になりました。ライト基盤の向きとか、なにか組み立て間違えをしていたのかも知れませんが理由は不明です。結果論ですが最初からコンデンサーを切り落とすだけで良かった様です。

DF50の前回の記事はこちらです。⇒DF50 59


2025年10月2日木曜日

1979年 姫新線(Nゲージ)その2(完)

 1979年当時、急行列車は大阪発姫新線・因美線経由“みささ“が鳥取行き・倉吉行きの2往復、大阪発姫新線経由“みまさか“が中国勝山行き・月田行き・新見行きの3往復、そして広島から芸備線、新見経由津山行きの“やまのゆ“が1往復走っていました。姫新線内は“みささ“と“みまさか“の併結で最大11両編成で走っていた様です。下り1本だけ月田行き”みまさか3号“がありますが、月田到着後は折り返し鳥取行き普通列車になっていた様です。


備後落合まで”急行ちどり”に併結されていた広島-津山間の”急行やまのゆ”は1976年頃まではキハ55+キハ26 400という魅力的な編成でした。昔の鉄道ジャーナルで急行ちどりの記事に登場しています。

その後、1977年に”やまのゆ”はキハ58+キハ28の2両編成になり、1980年に廃止されました。ところで”やまのゆ”は何から命名されたのでしょうか。確かな事は分かりませんが、岡山県北部には美作三湯という有名な温泉があるそうなので、それが由来かも知れません。

岡山-中国勝山間にはグリーン車連結の快速が1往復走っていました。急行“砂丘“と共通運用だったのかなぁ、と思います。

岡山区の気動車が多く運用されており、全線を直通する普通列車4往復運転には、同区のキハユニ15やキユニ18、キユニ26が使われていた様です。

区間運転が多く、こんな短い2両編成も走っていました。

50系客車が播但線・姫新線に早々に配置されたのは旧型客車のデッキから飛び降りたりする不良高校生対策だったと言う記事がありました。

1979年頃は姫新線ではまだ旧型客車と50系客車が併用されていた様です。

改めて見ると、かなり複雑な45年前の姫新線でした。

参考にさせていただいたHP・ブログ(敬称略):ひめたか鉄道2018、「はなぶさ」に集まる仲間たち、裏辺研究所、岩堀春夫のblog2、わが国鉄時代2、国鉄・私鉄の思い出、Wikipedia、その他